HOTELソフィテル東京閉館 [台湾企業の新入社員だった頃]

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昨年末。
わたしにとって、思い出深い場所の一つがなくなることになりました。

その場所とは、上野不忍池の向こうにある
ソフィテル東京」という樹木の形をしたホテルです。

当時は何も知りませんでしたが、
メタボリズムと言われる建築思想を反映した建築家菊竹清訓氏設計の建築です。

初めてこのホテルに入ったのは、大学を卒業した年の夏のことでした。
当時、わたしは大学院で研究生をしつつ、
中国関連のタブロイド誌のライターなどしていました。

そんな折、友人から
「ある台湾メーカーが日本事務所び開設要員を探しているので、
 心当たりがあれば、中国語を話す人材を紹介してほしい」と言われ、
わたしは北京留学時代の友人を紹介することにしました。

そしてこの日、そのメーカーの社長が滞在中だというこのホテルへ
わたしは友人を伴い、面接にやってきたのでした。

自分が面接を受けるわけでもないのに、妙に熱心に友人に説明をしつつ、
若干の緊張と、大いなる好奇心をふくらませ、いざホテルの前へ。

はじめこの建築の前に立ったとき。
このクリスマスツリーのような異様な形の建物がホテルだとは
どうにも思えず、何度もロゴと入り口を確認してしまいました。

いざ中に入っていると、そこにあったのは瀟洒でこじんまりとした
居心地の良いロビー。異彩を放つ外部と穏やかな内部の印象の違いに
正直、違和感を覚えたのを今でも覚えています。

ロビーの奥には、喫茶スペースが。
その一番奥に社長は座っており、ここで面接が始まりました。

まさか付き添いに来た自分が、将来その会社で働くことになるとは
夢にも思わず、この時わたしは別の喫茶室で友人を待ちました。

ただ、このホテルを後にするときに、また建物を振り返り、
こんな場所にあるなんて不便だね・・・建築を愛でる趣味でもなけりゃ、
 ビジネスで泊まったりしないよね
」と友人と話したのを覚えています。
二度と来ることもないな、と思ったわけです。

ところが、2週間後・・・
わたしは再びこのホテルに訪れ、社長とランチの席についていました。
入社の打合せでした。
(結局、友人は他の会社に入り、今では上海で係長!バリキャリだ~)

その時は、院と両立しながら勤めることを認めてもらったのですが、
自分でも本当にそんなことが可能なのか、そもそもなぜ働くことになった
のが自分なのか、さっぱりわからずじまい。ただひたすら・・・

(自分は大学院に行く道すじをつけたはずだったのになぁ~
 この先どうなるんだろう・・・?
 でも、わたしみたいな新卒に事務所を作らせようなんて。
 この社長、面白過ぎるな・・・)  と思っていました。

だって、わたしは社長と話をした時に、
あらかじめスピーカーの会社だと聞いていたにもかかわらず、
「何を作っている会社かわかりますか?」
と会社案内を渡され聞かれ、その製品のイラストをみて、
「パラボラアンテナですよね?」
と真剣に答えたぐらい・・・無知だったのですよ!?

(この台湾メーカー時代の話は、また他の機会に・・・)

ただ、その後もたびたび、社長は日本に来るたびにこのホテルに泊まり、
わたしは何度もこのホテルにFAXを流したり、携帯に出ない社長を
探してもらうためにホテルに電話したり、お世話になったのでした。

— — 
ホテル業界の過当競争が進むといわれる中、
HOTEL COSIMA時代からしても、たった11年の歴史での閉館です。
もうすでに取り壊しも決まっているそうです・・・。

決して好きな建築というわけではなかったけれど、
わたしにとって、記憶と密接に結びついた建築でした。

さようなら、ソフィテル東京。
永遠に記憶の中に。

コメント

  1. ウチータ より:

    ウチータです。先ほどはコメントありがとうございました。素敵なブログですね。建築は興味のある分野ですので、また寄らせてください!

  2. 農場 より:

    もしやここに登場する友人って・・・?!そうでしたかー。当時面接した建物、こんな形してたんですね。全く記憶に無いのですが。。。(笑)思い出の場所が消えていくのって、ちょっと寂しいですよね。上海も今、あちこちで古い建物が取り壊され、どんどん高層ビルが建造されていて、街の景観がすごいスピードで変化しています。

  3. ★農場小姐へふっふっふ、そうよっYOUよ!!!「いまごろは~青い目に~なぁ~ちゃぁ~って♪」 ならぬ 係長になぁ~ちゃぁ~って~♪だね 昇進おめでとう!!! ローカルスタッフとの協調はなかなか調整力いると思うけど、 農場小姐、がんばって!!そしていつかは永住・・・か!?

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